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民明書房


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No.3    民明書房の作り方

209 :田沢風典夫麗(てんぷれい) :04/02/04 02:35 ID:dGVN/d24
田沢「押忍! 不肖ながら田沢一号生、民明書房引用文の作り方を言うであります!」
松尾「なんかモーレツに悪い予感がするのう…」
田沢「それでは、耳の穴かっぽじってよく聞くでありまっす!

一.何を引用したか必ず最初に書くべし!
  わかりやすさが一番であります!!
一.当て字を初めて使う場合は必ず読み仮名をあてるべし!
  相手が理解できない単語が多いと読みづらいのであります!!
一.マニアックなネタは内容に少々説明を入れるべし!
  良いネタも相手に伝わってこそであります!!
一.引用した場合はできれば引用元へのリンクを張るべし!
  コピペから交流の輪を深めるのであります!!
一.最後に『民明書房刊「○○」より』をつけるべし!
  基本且つ一番重要なところであります!!

 以上、基本的なルールなのであります!
 後はスレの他の例文を読んで参考にするといいと思うのであります!」
鬼ヒゲ「ふーむ、やっぱり田沢は博学じゃのう」
桃「フッフフ、あいつは頼りになるぜ」

No.4    2get

『煮解賭 ( にげと ) 』

明朝末期、中國北東部の男達の間で、素麗建(すれたて)なる遊びが流行っていた。
先端に旗をくくりつけた棒を地面に立て、合図と共に棒に駆け寄りに旗を奪い合
うという、己の機敏さを誇示する遊びであった。
やがてこの遊びに飽きた者達が、毒草を煮込んだ煮汁を飲み、その解毒剤を旗代
わりにして奪い合うという遊びに発展させた。
命を落とす者が続出したが、戦いに勝利したものは英雄として賞賛され、朝廷に
仕える者を輩出するほどであった。
この毒草の煮汁の解毒剤を賭けた闘いは「煮解賭」と呼ばれ、時代を左右する勝
負の場でも競われてきた。
己の肉体を誇示する機会の少なくなった現代社会においては、インターネットで
の「2ゲット」と形を変えて、現代人が機敏さを争っているのである。

( 民明書房刊 「DNAに刻まれた中國 現代人の行動のルーツを探る」 より )

No.5    3get

『酸下吐(さんげと)』

「煮解賭(にげと)」により、毒にやられて命を落とす者が続出したのは前述の通りだが、
全国的に流行するにつれて、これは深刻な問題となっていった。
そこで、時の皇帝である崇禎帝は、新しい規範を作り出した。
煮解賭に失敗した人間でも、その毒素を完全に吐き出すことができれば
煮解賭の勝利者に準ずる豪傑という評価を与えるというものである。
肉体を酷使して、大量の胃酸とともに吐き出すことから
庶民の間で、酸下吐(さんげと)と呼ばれるようになった。
酸下吐の登場により、煮解賭に参加できない文民の中には、
これを専門とする者も現れ始めた。
彼らの策謀能力を、朝廷が重宝したことは言うまでもない。
己の戦略を進言する機会の少なくなった現代社会においては、インターネットで
の「3ゲット」と形を変えて、現代人が狡猾さを競っているのである。

( 民明書房刊 「DNAに刻まれた中國 現代人の行動のルーツを探る」 より )

No.6    チョコレート

『チョコレート』

現代ではカカオを原料とした菓子の事を言うが
元々は古代中国で使われていた薬草『茅是意図』(ちこれいと)を起源としたもの
この薬草は大変美味であったが、猛毒を含み食すと
三日三晩高熱と吐血を繰り返し苦痛にのた打ち回りながら死に至る
主に菓子等に混ぜて暗殺する為に用いられたりしていた
この『茅是意図』を混ぜた菓子は薬草の成分により、黒い色をしていたという
時の皇帝の側近であった『馬齢安泰』(ばれいあんたい)将軍がこの『茅是意図』
を含んだ菓子を食し、暗殺された事件が元で
1500年前の中国では憎むべき存在に黒い色をした菓子を贈りつけるという
嫌がらせが流行し、社会問題にもなっていたという
このことが歪曲されて日本に伝わり現代の日本では好意を持つ男性に女性がチョコレートを渡す
バレンタインデーという行事が広まっているが
過去の中国で繰り広げられた血生臭い陰湿な争いが元であることを知る者は少ない

民明書房『混沌の世代 冥界編』より一部抜粋

No.7    セント・バレンタインデー

戦徒・蛮恋多院出夷(せんと・ばれんたいんでい)

殷王朝の時代、当時の中国では「女性は家庭に」という概念はまだ確立されておらず、
男女の別なく力仕事や兵役に就き、共に同じ場で働いていた。
そのため、男女が兵役に就いている間に知り合うことも少なくはなかったが、
女性の兵士が男性の兵士に思いを告げる際に、野生の猪と虎を狩り、
これを渡して己の戦闘力と生活力を示すことによって
相手の気を引くという「猪虎霊渡(ちょこれいと)」と呼ばれる風習が存在した。
しかし、周辺の属国の人々は殷のこの奇異な風習を野蛮な物と見なし、
殷の出身者は「蛮恋多殷出夷(ばれんたいんでい)」と呼ばれ忌み嫌われることとなり、
そしてこの周辺国の殷王朝に対する嫌悪感が後の殷周革命の原動力となったと言われている。

そして現在、女性はかつてのように積極的に社会進出するようになり、
女性側から思いを告げる場面も多く見られるようになり、
ついには、特定の日には女性は男性にプレゼントを渡しながら告白しよう、
という風習が復活するまでとなった。
そしてこの日は、かつての殷王朝時代の女性兵士の呼び名にちなみ
「戦徒・蛮恋多院出夷(せんと・ばれんたいんでい)」と呼ばれるようになった。

ちなみに、女性が男性に渡す品の定番が「チョコレート」なのは
当時の風習「猪虎霊渡」からきているというのは言うまでもない。

民名書房刊「こんな風習いらない・慟哭編」より

No.8    アフガン航空相撲

アフガン航空相撲

11世紀ゴール朝の頃、時の国王の命により
アフガニスタン各地より集められた武術、格闘技に精通した者を中心に
編成された近衛兵の間での力比べが起源と言われる。
最初は地面の上だけでの競技であったが、時を経て高いところからの攻撃や
空中に飛び上がっての闘い等時を経る毎に技が高度化し
現在のアフガン航空相撲の形地が完成した。
後の元による侵攻の際もアフガン航空相撲力士は圧倒的多数を誇る元軍の攻撃を
得意の航空技により簡単に粉砕したと伝えられる。
その際元軍が航空相撲を研究し、アフガンに対抗するためにモンゴル式相撲を
完成させたが、空中戦ができなかったため実戦に使用されなかったということは
あまりよく知られていない。

「民明書房 『フビライ怒りのモンゴル相撲』より」

No.9    縦読み

『盾余観(たてよみ)』

太古の中國地方では戦乱が絶えなかった。
手足に防具を纏った戦士達は自国の勝利の為
夜を徹して戦った。しかし、そんな時代も終わりを告げ
身体の強い者ではなく、より賢い者が高い位に就くようになった。
野に下った豪傑たちは盾に映った自らの獣の様な顔を見て
名士になるには己の頭脳を極めなければいけないと悟った。
利口でなければ、生きていくことは出来ないのである。この故事から
多くの事を学び、冷静に判断することを「盾余観」と呼ぶようになった。
知力に優れたもののみが厳しい社会を生き残れるというのは、今も昔も変わらない。

( 民明書房刊 「中國故事から学ぶビジネスのノウハウ」 より )

No.10    やらないか

『矢裸納射歌(やらないか)』

紀元前、中國のとある少数民族が住む地域では
弓矢を使っての祭祀を行っていた。
特に盛んであったのは村の青年男子達が裸になって
歌を歌い、腰に納めていた弓を射て奉納するというものであった。
この祭祀は初め大勢で行われていたが、次第に二人一組の男性で
行うようになり、その祭司として選ばれる男子は極めて容姿端麗であったという。
この祭祀は長期間に渡って行われたため、選ばれた二人の男性の間で
特別な感情が芽生えることも少なくなかったという。
その事から転じて男性間での親密な関係のことを「矢裸納射歌」と
もてはやすようになった。

今日の某巨大掲示板で「やらないか?」という文句が流行っているのは
偶然の一致だろうか。

( 民明書房刊 「古代中國のホモセクシュアル事情」 より )

No.11    セクース

背苦臼(せくうす)

古代中国は三国時代、この動乱の時代において国の歴史を記すことは並大抵のことではない。
それは魏の国においても同様で、編さんが平安無事に済むようにと、史書編さん室は安庵(あんあん)
と名づけられたほどだ。その中で当代随一の学者が史書を編んだわけである。それはまさしく
艱難辛苦を極めたため、時の皇帝は歴史学者が逃亡しないように門番を置いた。
そんな半ば幽閉状態の中で、学者は「魏志倭人伝」など後世に残る偉大な業績を残したのだ。
しかし学者は長時間に及ぶデスクワークのために、背骨が曲がって臼のように凹む奇病にかかり
大変苦しむようになった。「背苦臼」と呼ばれるその病気にかかっても学者は執念で史書の編さんを
続けたが、その苦しみの声は聞くに堪えず、門番は気が違いそうになるほどだったという。そして
壁の向こうから夜な夜な「魏志…魏志…」という幽霊のような声が聞こえてくるに及んで、獨緒(どくお)
という名の門番役人はとうとう首をつってしまった。

現代の若者がセクースの「ギシギシ アンアン」という声で首をつりたくなる衝動に駆られるのは、
彼らが獨緒の遺伝子を受け継いでいるからに他ならない。
( 民明書房刊 「魏志・魏志安庵 耗貯補(もうだめぽ)の巻」 より )

No.12    おながいしまつ

『御長石松(おながいしまつ)』

中国は宋の時代、宋画の代表的な画家として後の雪舟などにも大きな影響を与えた梁楷は
自然を朴訥な筆致で描いた山水画を得意とした。岩の上に生えた松の、天にも昇らんばかりの
隆々とした筆致が見事な「石松図」(通称「御長石松」)は彼の代表作であり、わが社がかつてアメリカの
オークションにて10億の値をつけて競り落として話題になったことは読者諸君も覚えておいでであろう。
ところで、この「御長石松」は流石に「描線に神が宿る」と賞賛された梁楷の作だけあり、松には天竜が
宿っていて、この作品を称える人々に対しどんな願いでも一つだけかなえてくれるという。それゆえ
そのご加護にあやかろうと、宋人は願い事をするときには「御長石松」と唱えたといい、それが日本に伝わり
「おながいしまつ」の語源となったことは周知の事実である。
なお、この言葉がエロ画像うpなどの下卑な願いに使用されることが多いのは、最初の祈願者が
ギャルのパンティーを願ったことに由来する。


MMR(民明書房マジカルアートルーム)刊
『時空を超えて立ちはだかる古代中国 俺達は…何もかも遅すぎたんだ…』 より

No.13    トリップ・コテハン

 統律譜(とりっぷ)/誇亭範(こてはん)

 古代中国では役人を騙り、税の名目で金品を騙し取るものが多かった。
そこで時の王朝は要職の役人に独自の名を与えその名を書に記すことで
厳しく役人の監理を行った。その書を統律譜(とりっぷ)と呼んだ。

 またその役人は誇亭範(こてはん)と呼ばれ他の役人と
区別されその仕事は他の役人の規範となるべきものとされた。
(だが実際はそうでない役人も多く皮肉の意味で誇亭範と呼ばれた)

 これらの故事が元になり現在の2chにおける
トリップ、コテハンが有ることは言うまでも無い。

  民明書房刊 「なるほどなっとくトリップ大辞典」より

No.14    禿げしく同意

禿四苦胴衣(はげしくどうい)

元来は「はげ、どういにしくす」と訓む。
前漢王朝を簒奪し新王朝を興し即位した王莽は、周代を理想とし、政治体制から
貨幣・文物に至るまで時代錯誤なまでに復古を追求した。
その末期に出された法令に「胴衣令」がある。
朝廷に仕えぬ庶民が冠・帽をかぶることを「官職にあるものと紛らわしく礼に反する」とし、
また庶民が華美な衣服をまとうことを「贅沢である」とし、ただ胴衣のみを纏うよう命じた
ものである。
とりわけ禿頭の者にとって、この時代既に帽は不可欠なものであり、長安の民は帽なしに
いかに頭の寒さをしのぐか四苦八苦したという。しかし、新王朝の官吏を目にするや、
処罰をおそれて帽を取り套を脱ぎ、胴衣令への恭順を装ったのである。
もっともこのような現実離れした復古政治のために新はわずか十数年で滅び、胴衣令も
長安周辺以外では厳しく行われないうちに赤眉軍・緑林軍らにより事実上廃止された。

このように「禿四苦胴衣」「禿しく胴衣」あるいは「禿胴」とは本来「同意して
いないが表面上同意を装う様」を指す故事であり、「深く同意している様」と
するのは誤用である。

なお、このとき長安のある禿頭の男が、「冠や帽でなければいいのだろう」と
藁を頭にかぶって嘲笑されたのが「禿藁」の語源であることは言うまでもない。

  民明書房刊 「禿、その苦難の歴史」より

No.15    ガイドライン

我井戸裸員(ガイドライン)

戦国時代、他国の破壊工作を防ぐためとして夜を徹して見回りをする役職が作られた。
彼らは気を引き締めるために衣服を脱ぎ、裸となって任務についていたため「裸員」と呼ばれた。
趙の工作員が秦の都に侵入し、井戸に毒を流そうとした時、
その夜都の井戸の当直であった裸員の典夫麗(てんぷれい)は工作員を見て、「何者だ」と声をかけた。
趙の工作員はすかさず「お前こそ何者だ!」と言い返した。
すると典夫麗は、「我井戸裸員也(われ、いどのらいんなり)」と、天地を揺るがさんばかりの大音声を上げた。
趙の工作員は腰が抜けてしまったという。
時の秦王は典夫麗の活躍を聞き、「彼こそ裸員の模範となるべきものだ」と言い、典夫麗を裸員の要職につけた。
典夫麗の元には多くの良き裸員が集い、彼らは秦の中国統一を支えたという。
この故事から、良き人材を集めた場所を、典夫麗の名言から「我井戸裸員」と言うようになった。
もちろん、模範となる物を「テンプレ」と呼ぶのは典夫麗に由来していることは言うまでもない。

民明書房刊「模範とするべき歴史上の人物・露出狂編」

No.16    ギコネコ

魏孤猫(ギコネコ)

中国は古代よりしばしば乱世に突入したが、そんな時代に女が権力の座につくには自らの美貌で時の
権力者に取り入るほかは無かった。彼女らはしばしば王を女遊びに溺れさせ、結果として国を滅ぼす
こともあった。そんな中国4000年の歴史の中で、最も悪女とされるのが魏の国の女狐と呼ばれる
魏孤・杷姐(ギコ・ハーニャン)である。彼女は魏王に取り入る一方、秦とも内通しており、スパイとして
暗躍して魏を滅亡に導いた。最終的に杷姐は秦の全ての実権を握ろうと企て、秦王を暗殺したものの
発覚して捕らえられ、獄中にて死すのであるが、辞世の句として呼んだ詩の一句
「我為壱手善、御前喪納悪」(私は一つだけ良いことをした、悪人の君主を葬り去ったことだ)
が後に唐代の詩人・李白に高く評価されることとなり、長安にて「壱手善」と言って「御前喪納悪」と返す
言葉遊びがはやったと記録にある。李白が魏孤のことを「猫」と評したことから、狡猾にして知略のある
者のことをその後「魏孤猫」と呼ぶようになったが、日本では「ギコ猫」という名前が先行し、ただの
可愛いキャラクターとしてとらえられているのは周知の通りである。なお、唐代の言葉遊びが時を経た
現代においても、ギコ猫を示す文字絵が「いってよし(壱手善の日本風読み)」というと
「オマエモナー(御前喪納悪の日本風読み)」と返す、という形で続いてるのを見ると感涙を禁じえない

民名書房刊「悪女像(あめぞう)の歴史」より

No.17    コピペ

鼓日部(コピペ)

原始時代、政治とは政(まつり)すなわち祭祀と同義であり、王は人民の幸福と国の平安を
願って事あるごとに神に祈りを捧げた。原始的な祈りの行為は社会の発達と共に大掛かりに
なってゆき、中国は殷王朝ではとうとう神事を行う部署として朝廷内に神祇官が置かれたほど
である。その神祇官の下位に、日の神の鼓を叩く一族・鼓日部(こひべ)と、神に食物を捧げる一族・
守庫裏部(すくりぶ、庫裏とは厨房または台所の意)が置かれたのだが、鼓日部の長であった
山 﨑渉(シャン・ジャショウ)という者、王の信任を得るうちに次第に朝廷内で勢力を伸ばし、各省
庁を我が物顔でのし歩くようになり、「我請以後応援」(これからも我を援助せしめよ)と賄賂を当然
のように求める蛮行に出たため、遂に”官吏”人西村某により悪禁(あくきん、朝廷から追放すること)
されたと記録にある。
その後、雨中家梅(うちゅうや・ばい)や居緒南寸(きょお・なんすん)など、たびたび朝廷を騒擾させ
世を荒廃させる鼓日部が現れ、遂には鼓日部は国家騒乱の代名詞となり果て廃されたという。
近年、鼓日部の悪評の理由は守庫裏部の中の過激派である守庫裏部党(すくりぶとう)が罪を
なすりつけていたという研究が現れ注目を浴びた。
なお、現代日本において掲示板を騒擾せしめる「コピペ」がこの「鼓日部」から来ているのは
言うまでも無い。無論スクリプトというのは守庫裏部党のことである。

民明書房刊「これからも民明書房を応援してくださいね」より

No.18    リストラ

「リストラ」

中国の秦時代に李柝站(リー・タクチョウ)によって考案された健康法は、
人間の経穴(ツボ)が肩に多くあることから、 肩を刺激することで疲労を回復し、
健康を促すというものであった。
 肩を揉む、肩を叩くという単純な健康法は当時大流行し、彼の元は入門者が後を立たず、栄華を誇った。
修行をして師範の称号を得たものはその証として肩に刺青をしていたという。
 しかし増えすぎた入門者は必ずしも利益をもたらすものではなく、 むしろ財政を圧迫することになった。
 そして孫の李諏虎(リー・ストラ)の代になるといよいよ経営が苦しくなり、 大幅な人員削減を行うことになった。
彼の人員削減は入門者の4割を解雇したと記録にある。
 以来、彼の名にちなみ人員削減のことをリストラと言うようになり、
人を解雇することを「肩を叩く」と表現するのはここに由来する。
また師範らが肩に刺青をしていたことから、地位や身分を「肩書き」と言うは周知の事実である。


民明書房刊『中国拳法に見る東洋医術』より

No.19    ドッヂボール

【怒馳暴流】(どっぢぼぅる)

その源流は三国時代の中国にあるといわれている。
馬上の敵に対し、鉄球をぶつけて倒すことが目的であり、
さらに敵がその鉄球を避けた時のために「外野」と呼ばれる兵士が、
外れた鉄球を拾い、再び敵を狙うのである。
余談ではあるが、張飛益徳がこの怒馳暴流の名手であったことは、
多くの歴史書には記されていない。

民明書房刊「中国球術大覧」より

No.20    スクリューパイルドライバー

宿龍牌留怒雷破<スクリューパイルドライバー>
宋代の中国に於いて、工夫達は岩山を削る際に一切の道具を使わず、
牌流怒雷破(パイルドライバー)と言う技術を用いて岩を素手で剥ぎ取り、
そのまま岩もろとも川へ落ちるという荒技を駆使していた。

この技術に、霊州に住む淋虞と言う修行僧が目をつけ、牌流怒雷破を仕掛ける際のジャンプ力を鍛え上げ、
更には回転も付け加える事によって正に一撃必殺の奥義へと昇華させたのである。
これを見た時の皇帝が「舞い上がる事宿龍の如し(まるで龍が宿っているかのようだ)」
と呟いた事から宿龍牌流怒雷破と言う名前が付いたとされている。
尚、この宿龍が船の「スクリュー」の語源になった事は言うまでも無い。

民明書房刊 「吃驚的武芸100選」

No.21    ニダー

――『似駄亜』(にだあ)

 その昔、時の中国の属国の一つにある小国があった。その国の住人は中国とも、また隣
国日本とも違った人種(在る学者は人類とはルーツを異なるものと唱えている)であると
いう。無理も無い。彼等の頬には鋭い鰓があり、その鰓に触れたものすべてを切り裂くと
いわれている。
 また他のども民族よりも激しい短絡性、暴力性を持ち、一度怒ると顔を紅くして口から
泡まで吹く。
 彼等は基本的に寄生して生き、自ら何かを作ろうとはせずに他人のものを使い、模倣し、
――そこまでならともかく、それを自分のものだ、と宣言してしまう。どういうわけかこ
の民族に関してはこのような事は珍しくない。

 彼等の正式名称は幾つもあるが、しかし彼等はその凶悪な模倣根性、身勝手さ、ふてぶ
てしさなどより「似」「駄」「亜」の不名誉な(つまりは、亜流であり、駄作であり、
似非でしかない)三文字を与えられる事になる。

 彼等にとって幸せな事は、この世界は全て我等のものである、という子供すら見ない夢
幻に浸れて現を忘れてしまえる事であろうか。恐らく、彼等の破滅の時まで、ずっと――

民明書房「世界から忘れ去りたいもの・第一巻兼最終巻」より

No.22    嫌韓厨

拳寒中(けんかんちゅう)

中国は晋王朝の崩壊後、五胡十六国と称される乱世を迎えたのであるが、中央の勢力の
弱体化につれ、それまで虐げられていた辺境の民族が続々と台頭して来た。中でも台頭
著しかったのが朝鮮民族である。4世紀初頭には楽浪郡をも滅ぼし、朝鮮半島の一大勢力
として無視できないものとなった。
しかし中国が再び統一された唐の時代、再び朝鮮半島の支配をもくろんだ時の王朝は、朝鮮半島
における属国の新羅と共謀してまず660年百済、次に668年高句麗を滅ぼし、再び朝鮮半島の
国家を自らの属国となしたのである。その決戦の際に百済の総大将、煮駄阿(ニ・ダア)将軍は、
雪の積もった決戦の跡にて、唐の軍隊に敗れ生存者が4人となった自軍を見て、遂に気が触れ
拳を寒中に突きたて「覇微四!」(ファビョ~ン!、わずか4人の兵で敵を制覇できるものか)と
涙に暮れたと記録にある。彼は後に百済の同盟国であった日本へと背走することになるのだが、
終生彼は漢民族と、漢民族に自らの魂を売り渡した朝鮮民族とを恨んだと言い、彼の志を継ぎ
漢民族と朝鮮民族を狂信的に憎むものを現代では拳寒中という。ちなみに誤変換を常用する
2chでは嫌韓厨とも書くが、本来は嫌中国の意も含んでいることはあまり知られていない。

民明書房刊『売リ自ナル朝鮮民族』より

No.23    モーむす

【猛武衆(もうむす)】
中国において後宮は男子禁制のため猛武衆という女性の兵士が警備をしていた。
元々は下級の役職であったが将軍 津雲狗(つうんく)の力添えなどにより次第に頭角を現していった。
また猛武衆が台頭したもうひとつ要因に外部支持者の存在も大きい。
彼らは今で言うパトロンみたいなもので猛雄他と呼ばれた。
人気アイドルグループのモーニング娘。のことをモームスと呼んだり彼女らのファンをモーヲタと呼ぶのは
猛武衆と猛雄他の関係に似ているからであろう。

民名書房刊 「なんてったって愛道流」より

No.24    オナニー

 温菜尼医(おんなにい)

 中国清代中期 医学発達の最盛期にて発祥した医療法。
 戦が日常茶飯事となった当時において、種の保存の欲求から来る性衝動は
 兵の不満の高まりと戦意喪失を助長し、深刻な問題となっていた。
 これを打破したのが、中国東北部に位置する絶倫寺の開祖の僧、包茎(ほうけい)である。
 包茎は最寄の同派である淫乱寺の開祖である槍漫(やりまん)と共に、寺に代々伝わる局部マッサージ法を
 尼達に習得させ、兵達に施した。
 その効果は絶大なもので、ついには国中の尼が総動員で行う程であった。
 この時の尼達の柔肌が茹でた野菜のように柔らかかったことから、この医療法は温菜尼医と呼ばれるようになったのである
 余談ではあるが、戦が終わった後も兵達はその快感を忘れられず、各々で処理をするようになった。
 これが現代で言うオナニーにあたるのは言うまでもない。
  

 民明書房刊「中国伝承医学その神秘」より

No.25    スレスト

【素霊寿党(すれすと)】

魏・呉・蜀による三国時代、隣接する地域とのいざこざや乱獲を防ぐために
狩りを行える場所や、狩猟中の降雨の際に雨宿りするための小屋の使用方法などを定めた
「労狩留雨流(ろうかるるうる)」という地域独自の規範があった。
この労狩留雨流の中でもっとも重要だったのが
国の守り神であるイタチを狩ったり売買する、
いわゆる「鼬買(いたちがい)」を禁止するという条項である。

このような労狩留雨流に違反した場合、
祈祷師や精霊信奉者で構成される集団「素霊寿党(すれすと)」が違反者を裁いた。
素霊寿党による説教のあと、
ニ槍(にやり)を突き刺すことによって処罰が完了するとされている。
死刑ではないが、恩赦がない限り再び狩りに出ることは禁止される。

現代のインターネット上の掲示板で、板違いスレッドがスレストされるのは、
この素霊寿党が起源であることはいうまでもない。


(民明書房刊 「法律の抜け道 ~勝ち組・負け組~」 より)

No.26    うまい棒

【有馬井傍(うまいぼう)】

古代中国において最も速い交通手段は馬であった。
移動の途上で馬に休息と水をとらせるため、街道にある井戸の傍らには
人馬がよく集まることになるが、その休息の際によく食べられていた携行食料が
有馬井傍(うまいぼう)である。

練った小麦粉を棒状に加工し、油で揚げ塩などで調味したものであり、
小麦、油というどこででも手に入る手軽さと安さから広く人々に愛された。

この有馬井傍は王金(おうきん)という老人が考案したものであり、後に王金は
爺王金(やおうきん)と呼ばれることになる。

現代においてやおきんから発売されているうまい棒のルーツが、この
有馬井傍であることは言うまでもない。

民明書房刊「砂食う苦しみの果て~中国の食文化~」より

No.27    キモヲタ

【気猛汚汰(きもおた)】

古代中国拳法界には数多くの派閥が存在した。
その中でも「汚汰」と呼ばれる一族が編み出した拳法は
大きな勢力を誇っていた。しかし、この一族は後継者争いが耐えなかった。
一族の王となった者は中国をほぼ支配できる程の権力が手に入るからである。

最初は後継者を決める会食中に上層部に命令された門下生が乱入し
「燃(もえ)!燃(もえ)!」という攻撃的な暴言を連発し会食を中断させる
程度のものだったが、時が経つにつれ後継者を直接狙う強行手段がとられるようになって

混家(こみけ)と呼ばれる人の多い遊戯場に連れて行き事故に見せかけて
複数の人間で後継者の顔を力いっぱい踏みつけて痛めつけたり
滅世三央(めっせさんおう)と呼ばれる狭い神社に後継者を
悪臭を放つ樽(糞便が詰められていた)とともに監禁したりと
人権を無視した戦い方になっていくのを見てある文豪が

「人の中で一番汚いのは気猛(きもう)な汚汰(おた)也」と著書
「中国拳法史第十五巻」に記したのがこの言葉の始まりである。
この著書の影響により、一般民衆は汚汰一族を「気猛汚汰(きもおた)!気猛汚汰(きもおた)!」
と罵るようになり、立場が悪くなった汚汰一族は少林寺拳法に統一された時に自然と消滅していった。

今でも中国の奥地では外見、気性共に酷い人間を「気猛汚汰」と罵る風習が残っている。


民明書房刊「中国拳法の黒歴史」より

No.28    もうだめぽ

【猛打滅法(もうだめっぽう)】

ヤツァン・ヤヮゥッツが開祖の拳法で、その威力は凄まじいものであり、
回転硬板を容易く割ってしまう程であった。
ある日、ヤツァンが回転硬板に卑猥な事や秩序を乱す事を書いていると
役人が歩いてきた。
彼は慌てて逃げ出したが、それを見ていた物達が
「猛打滅法!猛打滅法!」
と叫んだっために結局悪事がばれてしまった。

なお、数年前のファイル共有ソフト利用者摘発時にある男が掲示板に書き込んだ言葉
「もうだめぽ」は、ここからとった喪のと思われる。
ギリギリの状態でこの故事を思い出すとは、彼は相当の中国通だったのであろう。
http://www5.big.or.jp/~hellcat/news/0311/29d.html
民明書房刊「中国流摘発逃れ」より

No.29    誤爆

呉獏(ごばく)

古代中国は三国時代の呉の国において、呉獏という夢を食べる動物の存在が信じられていた。
人が悪夢を見る理由として、この呉獏が良い夢を食い尽くしてしまったからだ、としたのである。
そんな呉の人々の間には、悪夢から目覚めた後、呉獏の力を抑えるために酢魔阻(スマソ)
という魔よけの酢を一気飲みするという習慣があった。
人に不快感を与える書き込みである誤爆の語源が「呉獏」であり、誤爆の後に「スマソ」を
供えているのがその証拠である。

民明書房刊「武主大統領の呉獏千本ノックin亜不願」より

No.30    バールのようなもの

マジレスすると「バールのようなもの」とは古代シリアのカナアン神話における主神バァルの事です。
以下、ググッた文を貼っておきます。


>元来バァル神に与えられた神格は、豊穣を約束する太陽神といったものであり
決して現在の日本における「バールのようなもの」という負のイメージを喚起させるものではなかったのである。
何故そのような事になったか、興味深い逸話があるので紹介しよう。

バァル神の信仰がインドに伝わると、仏教の影響で祇園精舎の守護神 牛頭天王へと変容する。
さらに中国に伝わると、今度は道教の影響で冥界の獄卒としての牛頭天王になる。
閻魔大王の配下の牛頭馬頭の片割れの誕生である。
このような神格の変遷を辿りながらバァルは牛頭として、朝鮮を経由して日本に流入するわけなのだが、
朝鮮半島においてのみ不可解な形で定着した。
朝鮮民族特有の火病(一章参照)の状態に陥った時に、荒ぶる牛頭が乗り移ったと形容された。
しかし、直接に牛頭を言葉に出すことははばかられ、語源までさかのぼり「バァルのようなものが憑いた」と
表されるようになったのである。
つまり、昨今NEWSで使われる「バールのようなもので破壊した」という言葉は、意外に知られていないが
「韓国人がかんしゃくをおこし、ムリヤリな力(方法)で破壊した」
という意味の言葉なのである。


著・許 元璧 「HOP・STEP・ふぁびょ~ん」
出版元 民明書房

No.31    保守

保守【ほしゅ】

正しくは「穂守」と書く。
中国文明は農耕文明であり、日本の稲作文化が中国から伝わったものであることは良く知られている。
その中国において何百年に一度大規模な飢饉が起こることは歴史上に何度か見られることであり、
その飢饉がきっかけになって王朝が倒れたり、大規模な乱が起きたのも良く見られることである。
穂守とは紀元前200年頃から史上に現れた村ごとに作られた自警団とも呼べるもので、
飢饉が起こった際に村の水田や畑を守るために組織された村人の集団である。
「穂」という漢字が当てられたのは言うまでも無く穂から米が取れるためである。
現在では「水田を守る」という意味が拡大され「保ち守ること」という意味で使われるようになった。
それに合わせ穂という漢字も保に改められることになった。
2ちゃんねるにおいて保守という言葉が良く使われるが、
これはスレッドを自分の水田としてそれを守るために行っていると見れば極めて原義に近い使い方と言えるだろう。

民明書房刊「農耕文明 第3巻 ―古代中国と現代の類似性―」より

No.32    ロボット

狼暴党(ろうぼうとう)

中国の春秋戦国時代に名を馳せた盗賊団。
狼の背に人形を乗せ、人数をごまかしたり囮として使用していた。
その人形は狼の動きと連動して動き、遠目にはまるで本物の人間のように見えたという。
今日では、ロボットの名の由来はチェコ語の「ロボータ」ではなく、
この「狼暴党」であるとする説が有力となってきている。

なお、この狼暴党の鎮圧に活躍したのが「鉄腕将軍」とよばれた武将、
按唐武(あんとうむ)であり、手塚治虫の「鉄腕アトム」は伝記「鉄腕按唐武」に
影響を受けて書かれたことはよく知られている。

                  -民明書房刊「ロボット史異聞」-

No.33    ポカリスエット

歩仮素越冬(ぽかりすえと)
かの秦の始皇帝が不老不死を求めたという伝承は有名であるが
不老長寿の薬と称されて出された物が「歩仮素越冬」であった。
その液体は、一口飲めば仮に素足のままで一冬を過ごしても
風邪ひとつひかないという強靱な肉体と精神力が身に付く物であったことからこの名が付いたという。
現在、有名なスポーツドリンクに「ポカリスエット」というものがあるが
そのなはこれに由来している。

民明書房刊「知られざる中国医療」より

No.34    ポロリ

歩露離(ぽろり)
国中に自らの評判を広めるため、いかなる手段を持ってしても観衆の興味
を引こうとした剣豪達は、時には破廉恥な技を用いることも無辞さなかった。
晋の時代に鶴塀(つるべい)という流浪人あり、特殊な歩み寄りにより対戦相手の
衣服・ふんどしを切り離して露にする技を編み出し、観衆の喝采を浴びたが
遂に皇帝の逆鱗に触れ永追放されたと記録にある
民明書房刊「王猛烈伝」より

明石「一度この味を知れば後はもう病み付きになる」

No.35    スーパーフリー

素婦痢(す ふり)
・・・中国宋代、都の西沃省に勢力を誇った秘密結社。
その首領である倭堕惨(ワ ダサン)は全国制覇の野望を抱き、把裸把裸拳
という拳法を編み出し、人々から恐れられた。その秘奥義・非情戒弾とは、
狙いを付けた敵(倭堕惨娯乃味と呼ばれる)を宴席に招き、遊技に誘って
油断させ、密かにアルコール度数の高い酒を立て続けに飲ませて泥酔させた
挙げ句、集団で襲うという手段を選ばない卑劣きわまるやり口であった。
倭堕惨とその一党の手にかかった相手は500人とも1000人ともいわれ、
倭堕惨魔術(ワダサンマジック)の名で恐れられたという。
今日、学生コンパ等で同様の手口を使う者がまれにいるが、倭堕惨の
後裔であるかどうかは定かではない。
(民明書房刊『中国異常性欲物語~倭堕惨の野望~』より

No.36    ちんちんシュッ!シュッ!シュッ!

『治殷 治殷 主!主!主!(ちんちん シュッ! シュッ! シュッ!)』

殷王朝最後の皇帝である紂王は寵愛する妲己にそそのかされ、悪政を重ねた後、
周の武王により打ち倒されたのはあまりにも有名な話である。
紂王は、牧野の戦いで大敗後、都へと逃げ戻り、鹿台に火を放って自刃するのだが、
自刃の直前、紂王の元で贅沢の限りを極めた役人や宦官たちは、
かつての贅沢がもうできないのを悔やみ、紂王に対し、泣きながら
「治殷 治殷 主!主!主!(※注・治殷=殷を治めて下さい、主=我らが主紂王よ!)」と懇願した。
その懇願ぶりは、悲惨としかいいようがなく、ある者は燃えゆく宮殿の中で「治殷 治殷 主!主!主!」と
ヨダレを垂らしながら、柱に体を激しくこすりつけ、そのこすりつけようは柱の塗装が剥がれ落ち、
血が噴出し肉がずたずたになるほどであったという。

なお、現代日本の匿名掲示板において「ちんちん シュッ! シュッ! シュッ!」という文言と共に
ヨダレを垂らした肥えた初老の男性のAAが貼られるのは、
根底にこの逸話が元になっていることはいうまでもない。

    民明書房刊 『古代中国王朝滅亡全書』より抜粋

No.37    ぬるぽ

『濡流報(ぬるぽ)』

殷の時代、中国では、しばしば日照りが横行し、
そのたびに人々は甲骨を用いた占いで天候の行方を占ったといわれている。
この占いの結果、出された雨の知らせが、濡流報であった。
濡流報は、日照りで苦しむ農民達に歓迎され、農民達は、祝福の意味を込めて、
「賀(が)」と言って、濡流報を伝える者をもてはやしたという。
「濡流報」「賀」のやり取りは、初めは言葉だけのやり取りであったが、やがて杖や棒を用いて、
相手の頭をなでる行為が加わり慣習化した。
後の三国時代には、連弩の技術を応用した自動式の賀装置も作られている。

なお、現代の「ぬるぽ」「ガッ」のやり取りは、いうまでもなく、濡流報が元になっており、
棒のようなもので相手を殴るという、一見粗暴な行為に変化しつつも、
祝福と感謝、五穀豊穣の願いが込められていることを我々は忘れてはならないだろう。

民明書房刊『知られざる甲骨文字発祥の歴史』より

No.38    ふしあなさん

『不氏唖那散』 (ふしあなさん)

神話から歴史へと人間が神から一人歩きする激動の時代。
黄帝亡き後には蛮愚が跳梁し、獣も人も区別なく地獄を味わったという。
そんな中、黄帝の教えを頑なに守ろうとする若者がいた。
唖那という黄帝死後に民を苦しめた一族の者だ。
ある日彼は町娘に部下が暴行を働くのを咎め刑したところ、その両親にこう詰られた。
「例えあなたが黄帝の血をひいたとしてもその教えを守ろうともあなたは鬼の一族、唖那の人間だ」
そして町人の正論に力なく項垂れ殿に帰った彼を待っていたのは親類達の謀略だった。
彼は気付くや否やすぐさま一族の者を親しかった従兄弟と共に皆殺した。
そして部下に黄帝に仕えた唖那氏再興を問われた時にこう答えた。
「唖那は(我が)氏にあらず(我は)ただ散るのみ」(責任を取って家を潰す)
この若者の偉業を人々は長く語り継ぎ、今日(こんにち)の2ちゃんねるにもそれは残っている。

補足・一説によれば鳥の羽から作った身分証明書(鳥符)を廃止したとも、
すべては彼に付き従った従兄弟の策略で氏を表す鳥符を捨てざる終えなかったとも言われてる

民明書房刊「鳥符~伝説から歴史・そこに横たわる罠~」より

No.39    ふいんき

「負陰気(ふいんき)」

古代中国は春秋時代において、諸子百家と呼ばれる説法家が数多くいたが
その中に、万物を陰と陽で表す陰陽説を唱える鄒衍(すうえん)と言う者がいた。
この鄒衍が治世にあたり、当時仕えていた秦王に進言したのが
「王に対する害や恨み(すなわち陰の気)を王の代わりに受け、これを守る」という
呪術的な役職である。
この役に着いた者は「王の陰気を負う」ことから「負陰気」と呼ばれ、
また任命されてしまうとなぜか死ぬまで任を返還できないことから
人々はこの任に任命されることを恐れたという。
しかし、これらの者が王の害を代わりに受けてくれたおかげで
秦王は何度も刺客などから逃れ、ついには中国全土を統一することができた。
この「負陰気」は中国統一後も歴史の裏で代々受け継がれ、それがやがて日本に伝わり
陰陽師などになったことは意外と知られていない事実である。

なお、現在で掲示板に「ふいんき(←なぜか変換できない)嫁よ。」と書かれていると
恥ずかしい打ち間違いと勘違いされることがあるが、本当は現代日本でこの役に
自分の嫁が任命されてしまったという者が書いた悲しみの慟哭が書かれているのである。

民明書房刊「黒歴史~平和な世間の知られざる恐怖~」より

No.40    日本ブレイク工業

日本無礼区興行 (にほんぶれいくこうぎょう)

古代中国は唐の時代、日本はいまだ蛮国とみなされていた。
そんな汚名を返上するため、天武天皇は日本と言う国号を定め、東大寺造営などの
巨大な国家事業を推し進め、その大仏の開眼供養の時に満を持して唐から客人を呼び寄せた。
しかしその際に労働者達が披露した、舞霊歌雨(ぶれいかう)という釈迦を称える舞踊が
客人たちをひどく驚かせ、後に至るまで「日本無礼区興行釈迦」として世の語り草とされることになる。
その舞踊の内容は、婦裸手(ふらしゅ)という、裸になり自らの妻に見立てた杭頭を抱える格好で
「人厄戎帯~」「陀・陀・陀!」といった奇妙な歌を唱えたり、東へ西へ走ったり、
逆回転しながら冷冷資屋砂(ひりひりしやすな)という、東大寺造営の際に使われた砂をまきちらしたりしたと言い、
招かれた唐の客人は「なんと無礼な興行だろう!」と大きな衝撃を受けたという。
その時の労働者達の集団が後に「日本ブレイク工業」として発展した、かどうかは定かではない。

民名書房刊「無礼区会唐(ぶれいくあうとう)」より

No.41    D・V・D!D・V・D!

泥武威泥(でいぶいでい)


古代中国のとある地方では大雨がよく降ったため外は一面泥だらけとなっていた
そこに目をつけた一人のませた少年が一風変わった泥を使った拳法を編み出した
その凄まじい威力には対戦相手も泥だらけの服を脱いで降参するほどであった
その泥を使い相手の服を脱がせて降参させる脅威の技を周りは
畏敬を込めて「泥・武威・泥!」と呼ばれるようになり
そしてそれがいつしか己の立場を利用し服を脱ぐことを強要することを
「泥武威泥」と呼ぶようになったという


「D・V・D!」「 D・V・D!」の起源が「泥武威泥」であるということは言うまでも無い

民明書房刊「驚き中国拳法の世界~18歳以下には無理~」より

No.42    キリ番

~桐番(きりばん)~
8世紀前半、この時代は顕著な建築技術の発展が見られたほか、家具のにもデザインや質を求める動きが庶民にも広まっており、木材が高値で取引されていた。
その中でも桐は吸湿性に優れ、燃えにくいことから家屋や家具の製造に重宝されました。しかし、次第に良質な桐を手に入れることが難しくなり、市場では大規模な抽選会がよく開かれました。
抽選に使われる紙には数字が書いてあり、「伍百」より「壱千」の方がより良い桐を手に入れることが出来、「参百伍拾四」などの番号の人は桐を手にすることは出来ませんでした。
桐を手に入れることが出来る番号を「桐番」と呼び、人々から大層羨ましがられたそうです。

現在、インターネット上でよく見かけるキリ番という文化がここから来ている事はあまり知られていない。

( 民明書房刊 「DNAに刻まれた中國 現代人の行動のルーツを探る」 より )

No.43    マクドナルド

摩駆 怒名立奴(まく どなりゅうど)

古代中国は宋の時代、摩駆(まく)と呼ばれる奴隷がいた。
この者は頭が良かったが、金がないため身を立てることができなかった。
そこで、仕えていた主人に「お願いです、科挙試験を受けるためお金をお貸しください」
と頼んだが、主人は「お前になど受かるはずもない」と説明も聞かず突っぱねたため、
摩駆は怒りを感じ、後日奇抜な服装でもう一度頼みに行った。
それは白く化粧した顔に、赤い毛のかつらをすることで己を目立たせ、
さらに「麻竺(まじく)」というインドの麻で織った服を着るというものであった。
この容貌は主人を大いに興がらせ、一度だけ摩駆のために金を貸すことにし、
その後、科挙試験に見事受かった摩駆は借りたお金を倍にして返したと言う。
人々はこの話から奴隷から役人まで成り上がった摩駆のことを「怒りによって名を立てた奴隷」
すなわち「怒名立奴(どなりゅうど)」と呼び、その行いをたたえた。

また摩駆の格好をすることを、その服から「怒名立奴麻竺(どなりゅうどまじく)」と呼んだが、
あまりに目立ち、さらに当時摩駆以外の者はこんな格好をしていなかったため
この格好で悪さを行い、摩駆に罪をなすりつけようとする者が多く現れた。
子供を誘拐するため窓から室内を覗き人々を恐怖に陥れたり、
「称們出屋外。」(訳:お前ら表へ出ろ)と言って挑発的な態度をとったり
椅子に座って一物をあらわにし、それを見た者に
「称契不契我?」(訳:やらないか?)と声をかけるなどする犯罪が行われ、
事態を重く見た時の皇帝はその格好をすることを禁止したと言う。
それでもしばらくは悪さが続いたが、「熊組」と言う自警団によって
取締りが強化されてからは犯罪が減ったとされる。

なお、現代でこのような風貌の者がファーストフード店のマスコットとなっているのは
この摩駆の由来からきているのはたしかであるが、あるインターネット掲示板で
「お前ら、表へ出ろ」というAAがあったり、クマーに殴られたりしているAAがあるのは
この話が由来なのかどうかは定かではない。

民明書房刊『中国奇人列伝第三巻 茂衆~賢達記』より

No.44    何だってーっ!

難脱帝(なんだってい)

古代中国は唐の時代、貴馬香具師(キバヤシ)という、
皇帝に献上する馬(UMA)の装飾具を作る職業の男がいた。
彼は皇帝の奴隷のような境遇に不満を持ち、一攫千金を夢見て、
伝説の未確認生物が自らの巣を金銀財宝で飾り上げているという
野巣・虎駄無巣(のす・とらだむす)伝説を信じて泰山の山深くに
仲間達と一緒に入っていった。
しかし、そもそも嘘臭い伝説であったためにたどり着けるはずも無く、
愚礼(ぐれい)な人間に襲われそうになったりするたびに、
「アナタは一体、何度私の前に立ちはだかるというのか・・・ 野巣虎駄無巣よ!」とつぶやいたという。
結局10年ほどの年月をかけても何も見つからなかったといい、
「おれたち(人類)は……何もかも…… 何もかも遅すぎたんだ…………」とつぶやいたり
「あきらめない!!それがオレたちにできる唯一の闘い方なんだよ!!」 と切れたりする
彼らに出会った付近の村人は、「自分らが勝手に騒いどいて何を言ってるんだ」と
笑笑会有(えむえむあある)と名づけて笑いものにしたと記録にある。
ちなみにこの話は難脱帝、すなわち「皇帝の徳を脱して(ミステリーを調査するのは)難しい」
という意味の説話で、MMRのナワヤたちが「何だってー(AA略」と叫ぶのは
「編集長あってのMMRだ」という意味もこめられている。

民明書房古代中国研究班MMR(Min-Mei Research)刊 『ここまで来ると、もはや 必 然 …』より

No.45    801

矢追者(やおいもの)

前書において、「矢裸納射歌(やらないか)」という祭祀において
次第に二人一組の男性で行うようになった、ということを記したが、
それと共に祭司に選ばれた美青年たちを焦がれるがあまり
神にささげるための矢が射られてから奉納されるまでのあいだに
矢に殺到し、持っていってしまうという女性たちもあらわれたことも忘れてはならない。
彼女らは「矢追者(やおいもの)」と呼ばれ、その神をも畏れぬ行為は
それを見た人々を驚愕させ、深く嘆き悲しませたと言う。
しかし、部族内での弾圧にかかわらずその行いをする者は年々増え続け、
ついには祭祀を執りやめないといけないほどまでに流行した。
そのときから「矢裸納射歌」は盗られるような野に向けて矢を射るのではなく、
神社の窓から室内に向けて射るようになり、また祭司を執り行う回数も格段に減らした。
これによって矢追者たちが強い非難の意を示したことは言うまでもない。

なお、現在ボーイズラブなどのゲームがWindows対応しか売っていないなどいう事態は
メーカーが些細な投資をケチったがゆえのあくどい行為だとされているが、
実はこのような悲劇を再び起こさないようにしているのだということを知る人は少ない。

民明書房刊 「続・古代中國のホモセクシュアル事情 ~炎多留の墓~」 より

No.46    ガンカタ

  眼窩弾(がんかたん)

中国拳法史においては古来より全身あらゆる箇所を用いての格闘技が編み出されていた。
それは素手のみならず武器を用いての戦いにおいても同じことで、
特に投石技法の頂点と言われたのが眼窩弾である。
この技の修行は眼球を自在に動かす事から始まり、
目の裏側まで回せるようになって初めて技が伝授され、
全精神を集中して眼球を射出したとき皆伝となる。
即ちこの技を身に付けた者は片目を失うが、空いた眼窩に石を詰め、
極限まで鍛えた眼窩神経を集中して撃ち出すのが眼窩弾である。
もう片方の目で狙いを定めながらの砲撃であるため狙いは正確無比であり、
始祖である李減怨(りへりおん)氏の極意書によれば、
この格闘技を極める事により攻撃効果は12割上昇、防御面では6割3分上昇したという。
西洋が発祥と言われていた拳銃だが、現在の学会では
この眼窩弾こそが原型であるという説が支配的である。
余談ではあるが現在この技の修練を最も積んでいるのが高田純次であり、
眼窩弾に案を得た映画での主役の候補にも挙がっていたという。

No.47    ロックマン

魯 久慢(ろ  くまん)


中国、春秋時代に魯 久慢(ろ くまん)という男が
武術の達人である輪 異李(わ いり)と決闘をすることとなった。
実力に劣る魯は決闘の前に筋肉に直結した神経節を自ら突き
その肉体を岩のように硬くした。
しかし決闘の中で輪がその神経節をさらに針で突くと、
魯の肉体はその負荷に絶えることが出来ず、四散してしまったという
後にドクター・ライトがロボット兵器を作るときにこの秘術を応用し
魯久慢の名をとって「ロックマン」と名づけたことは賢明なる読者諸兄は既にお気づきであろう。
余談であるがこの秘術を見た、時の権力者は
「もう、魯はヤバイや」
と呟いたという。
この「もうろはやばいや」がなまって現代で言う『諸刃の刃』となったと唱える学者も少なくない

民明書房刊『古代中国の秘術と現代科学』より抜粋

No.48    軸ずらし

慈苦頭羅死(じくずらし)

中国明代初期において、敗無琉輩闘(はいなるはいとう)という
多対一の戦いに於いて無敵を誇った格闘術があったことは前述したが、
その奥義のひとつに苦頭羅(くずら)という投げ技があった。
それは突進してくる敵の懐にもぐりこみその反動を利用して相手を転ばせ、
頭から地面にたたきつけ、首の骨に大きな損傷を与える技である。
それを受けた者はあまりの痛さのために苦しみもだえ、これを見た人々は
「その痛み、苦頭羅死(くずらし)に勝るものなし」とおそれたと言う。
しかしあまりに非道な拳であるため、十六代目頭首の華 釜昏(かふこん)は
苦頭羅に改良を加え、首に損害を与えるのではなく首の骨を折ってしまうことで
少しでも相手が苦しまず死ねるような技に変えた。
この慈しみをもって敵に対する拳法はいつしか「慈苦頭羅死(じくずらし)」と呼ばれ
後世の拳法に大きな影響を与えたとされる。

なお、現代のゲーム「ファイナルファイト」ができたときにこの技も案に出たが、
一撃で殺してしまうため面白みが半減すると反対派が多く、
結果「真横のみしか攻撃しないソドムの突進技を上下の軸ずらしによって回避する」という
ボス攻略の裏技に変えたということはあまり知られてはいない。

民明書房刊「寡兵の戦略 増補版」より

No.49    パンチハメ

犯血破滅(ぱんちはめ)

それは中国民代初期 多対一の戦いに於いて無敵を誇った格闘術、敗無琉輩闘(はいなるはいとう)の
奥義の一つである。これは連打の最中 敵に背を向け拳を放つことで相手の虚を突き
ダウンすることも、また逃げることをも許さずに絶命するまで殴り続ける恐怖の奥義である。
また、敗無琉輩闘には罰苦膝(ばっくひざ)、
罰苦菩泥(ばっくぼでぃ)などの攻撃技だけでなく、攻防一体の必弧貫(ひっこぬき)
瞬間身をかわす刀拾威(かたなひろい)、
身を削り 五体を無敵の竜巻と化す滅我喰手(めがくらっしゅ)といった奥義も存在する。

余談ではあるがこの格闘術の奥義書が日本のあるゲーム企業に流れ、それを元に開発された
ゲームが、ベルトアクションの金字塔「ファイナルファイト」であることは余りにも有名である。

                                  民明書房刊「寡兵の戦略」より

No.50    オンドゥルルラギッタンディスカー!

温堂流流裸魏旦泥酢香(おんどうるるらぎたんでいすか)

正しくは、「おんどうりゅう るらぎたん でいすか」。

宋代、都には温堂老師という武術の達人がいた。
老師が開いた温堂流武術とは、相手の不意を突いて渾身の一撃を以って相手を制すのが特徴であり、
武器を持った敵にも有効なところから、主に徒手空拳の貧民の間で瞬く間に広まった。
温堂老師の弟子に魏旦という実力者がいたが、彼の自らの実力を誇る態度を見かねた老師は、
ある雪の夜、魏旦を裸にして道場から放り出した。
信頼していた老師から裏切られたと思った魏旦は、高楼から見ていた老師に罵声を浴びせたという。
その後、流浪の身となった魏旦は文字通りに裸一貫で自らを鍛え直し、
遂には民衆から「流裸魏旦」と畏怖と敬意を込めて呼ばれるまでの腕前になった。
そしてかつての師の真意を知った魏旦は、温堂老師に対戦を申し入れ、
戦いが始まるやいなやすぐさま老師めがけて隠していた泥玉を投げつけた。
よくある不意の突き方と考えた老師は慌てることなくそれを受け止め握り潰したが、
それは罠でその途端、泥玉の中に仕込んでいた酢の臭いに老師は顔をしかめ、
その時出来た隙を突いて、魏旦の当て身を受けてしまった。
魏旦が遂に自分を超えたことを知った老師は、魏旦を温堂流の後継者に指名したという。

この様に相手の予想の裏をかく戦術は温堂流では奥義「泥酢香」として伝えられたが、
未熟な使い手の間では真の意味は忘れられて
「温堂流流裸魏旦泥酢香」の掛け声とともに攻撃することが流行し、
しまいには、貧民同士の喧嘩で掛け声代わりに使われるようになってしまったという。

現在放送中の仮面ライダー剣において「オンドゥルルラギッタンディスカー!!」と主人公が叫ぶシーンがあるが、
掛け声や主人公を見下ろす人物の存在から、この史実を踏まえたものに間違いない。
今後、主人公の戦いが温堂流の華麗な技を見せるか、
それとも与太者の喧嘩に終わるか、目が離せない。

民明書房刊『中華武術と特撮』より抜粋

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